在りしの日の名城の勇姿

古写真を着色する事で、在りしの日の名城の勇姿を再び

伊賀上野城 二の丸御殿(明治5年と44年)

 
 県は三重県ですが、伊賀の国自体は、近鉄で大阪へ通勤圏内のため関西圏に
組み込まれているのが実態です。
 なぜ三重県に統合されたかは、藩祖の堂高虎の時代に、大坂夏の陣での功績で
領土になった名残でしょうね。
 国主格として伊勢と伊賀をもっていたので、一国一城令の影響もなお存続して
いますが、支城の扱いであったため、二の丸御殿は伊賀屋敷と呼ばれていました。
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明治5年頃なので、城として機能していましたが、大正元年になると女学校として
使用されていました。(現存はしていません)
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ちなみに、藤堂氏は鳥羽伏見の戦で官軍に寝返った事で有名ですが
主犯は代理参加した伊賀上野城の城代であった藤堂高虎の弟の系統の
藤堂氏です。