その後再建された経緯はありますが、地形などはそのまま活かし仙石氏に
より近世の城と城として整備されました。
明治になって西櫓以外すべて無くなりましたが、北櫓と南櫓は奇数な運命を経て
昭和18年まで、北櫓と南櫓は
遊郭として使用されており、合体してました。
東京へ売却予定があったようですが、地元から反対運動がおき、なんとか免れ昭和19年の戦争中に元の場所へ戻った経緯があります。
ちなみに兵庫の出石蕎麦は、仙石氏が信州
上田城から、但馬
出石城へ移動になった際に蕎麦職人も一緒に連れてきたのがルーツです。