在りしの日の名城の勇姿

古写真を着色する事で、在りしの日の名城の勇姿を再び

高取城 二の丸 太鼓櫓(明治20年)

高取城 二の丸 太鼓櫓(明治20年)

2023年 新年あけましておめでとうございます。

 

 髙取城は、秀忠があまりの山城に常普請で幕府の許可不要で、いつでも修理OKな

城ですが、関ヶ原の西軍の攻撃や幕末の天誅組の攻撃も退けた、実戦をくぐり抜けた

名城です。

 

明治20年に撮影された写真は3枚しか残っていませんが、天守も備えた立派な城です

髙取城 二の丸 太鼓櫓

この左には天守があるのですが、なぜか撮影対象になっていません

飛鳥から運ばれた猿石など、南都の守護神を象徴するような城ですが、登城というより

完全に登山の準備して行かないと大変な思いをします。

水戸城 御三階櫓(明治5年)

水戸城 御三階櫓(明治5年)

水戸城 御三階櫓 明和3年(1766)の再建から昭和20年(1945)年8月2日の空襲で炎上するまで残っていたので、古写真は結構残っていますが、最大の特徴である窓が観音開きで

開いているのは、この一枚しか見たことはないのですが、明治5年に放火され御三階櫓を除き焼失後かと思いますが、御三階櫓の手前に建物の礎石が残っているので、二の丸御殿のものかなと

水戸城 御三階櫓

水戸城 御三階櫓

昭和に焼失した8天守のうち、水戸城のみが再建されていないので、いつの日か見てみたいものです

名古屋城 金鯱(雌側) ウィーン万博(明治6年)

名古屋城 金鯱(雌側) ウィーン万博(明治6年)

名古屋城と言えば、やはり金鯱が有名ですが、オーストリア・ハンガリー帝国時代の

ウイーンに日本が初めて本格的に参加した万国博覧会の目玉として展示されていました

ウイーン万博に出展された金の鯱

今は、名古屋城天守空爆で炎上したさいに、溶けてしまい、その金塊から茶釜として形を変えて残っていますが、今も昔も人気ですね

水戸城 御三階櫓(昭和初期)

水戸城 御三階櫓

空襲(昭和20年8月2日)で焼失したのですが、御三家の城郭中できわめてシンプルなのが

特徴ですね。

水戸城自体は、佐竹氏から水戸徳川家の居城へと変わったのですが、手をいれる必要がないぐらい完成度が高いのと、基本 水戸徳川家は江戸定府のため、尾張紀州と違い戦国期の雰囲気が感じられます。

水戸城 御三階櫓

水戸城 御三階櫓

紀伊徳川家が、天守再建の際に5重の許可が下りず三重でになったのと同様に、幕府に遠慮して、天守ではなく、焼失した三重物見櫓再建の形式をとっているので、破風など

飾りがないのと、石の調達が難しいため、下部を海鼠壁にして石垣に見えるようなと苦心した跡がみえます。

 

二の丸は大手門と角櫓が復元されたので、いつの日か再建されるといいですね

 

佐倉城 大手門(明治5年)

佐倉城 大手門(明治5年)

老中の城と別名がつく、江戸城を守る役目も持った徳川幕府にとって重要な城です

それだけに、最近復元された水戸城と同様に、写っている人物と比較しても

大手門の巨大さがよくわかります。

佐倉城 大手門

佐倉城 大手門(明治5年)

写っているのは、堀田家の人々でしょうか、取り壊しが決まって、各自が名前を刻んで

撮っているのが、伝えたいものの歴史を感じます。

 

佐倉藩 江戸藩邸 向島屋敷(明治5年)

佐倉藩 江戸藩邸 向島屋敷(明治5年)

墨田区にあった、佐倉藩江戸藩邸ですが、今は残念ながら残っていません。

ただ藩邸の庭園では、比較的早く一般開放していたため、複数の写真が残っています。

佐倉藩 向島屋敷

佐倉藩 向島屋敷

写真に写っている人々は、堀田家の人達かと思いますが、釣りをしてたり結構自由な感じがいいですね

 

福山城 御湯殿 天守と葦陽館(明治35年頃)

福山城  御湯殿 天守と葦陽館(明治35年頃)

福山城も築城400年で、天守北面に鉄板を張るなど、在りし日の姿に近づいてきましたね。

 

明治25年山陽鉄道の福山停留所開通により、三の丸が分断された後、堀など埋め立てや開発により、本丸と二の丸の一部を除きかなり、破壊されていますが、写真では少しまだ残ってますね

福山城 御湯殿と葦陽館

福山城 御湯殿と葦陽館

福山城維持のため、月見櫓の後に作られた葦陽館も、御殿のようないい味を出してますね