在りしの日の名城の勇姿

古写真を着色する事で、在りしの日の名城の勇姿を再び

小田原城 二の丸 銅門(明治4年)

小田原城 二の丸 銅門(明治4年)

箱根を抑える要所であり、神奈川(横浜)港から、外国人も箱根とセットで訪れることが多く、古写真が結構残っている城でもあります。

 

地震による影響で、維持が厳しく廃城令が出る前にかなり放置されている事が伺います

小田原城 二の丸銅門

小田原城 二の丸銅門

個人的には、銅門の裏にある多門櫓がちょっと気になります。

後は、写真では土橋ですね。

小田原城 復興天守と新幹線0系(昭和39年10月1日)

小田原城 復興天守東海道新幹線0系(昭和39年10月1日)

東海道新幹線の車窓から見える城として、江戸城小田原城掛川城、清州城、彦根城などがあり、掛川城と清州城を除いては、一瞬しか見えませんが、それだけに見えるとちょっとうれしかったりします。

 

また0系も今や完全引退で、博物館行きなので、この2ショットは今は昔ですね。

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今回は50年前に遡ってみました。

弁天岬台場 函館山より遠景(明治20年)

弁天岬台場 函館山より遠景(明治20年)

新選組終焉の地で、五稜郭を守る最後の砦でしたが、新政府軍に函館山から襲撃され陥落しましたが、土方歳三が救援に向かう最中に戦死するなど、激戦地でした。

弁天岬台場

弁天岬台場

今は、一部に石垣が残るのみですが、戦艦 開陽が健在であれば函館湾を網羅でき本来の能力を発揮したのでしょうが、明治2年に弁天岬台場の前に、戦艦ではなく、砲台の役目として幡竜の残骸写真は残っており、旧幕府軍の最後まで意地を見せた事が忍ばれます。

 

府内城 到着櫓と大手門 明治40年頃

府内城 到着櫓と大手門 明治40年

 大分県庁として使用されていただけでなく、東の丸 到着櫓は、大分測候所と

して使用されており、1層目は採光のため窓が4つに増設され、大手門は鐘楼が

ありは2階に半鐘で時を知らせ、堀はレンコン栽培を行っていたマルチな活躍を

していました。

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到着櫓、大手門、西の丸西南隅櫓は、空襲で焼失しましたが、昭和40年に復元されていますが、大手門の鐘楼が再現されなかったのがちょっと残念です

府内城 西の丸 角櫓(昭和16年)

府内城 西の丸 角櫓(昭和16年)

秀吉の軍師であった竹中半兵衛の甥にあたる竹中重利より、近世城郭に整備された府内城で、廃城令後も残っていたのですが空襲により焼失した櫓の一つです。

府内城 西の丸 角櫓(昭和16年)

府内城 西の丸 角櫓(昭和16年)

かつて城内にあった大分県庁も場外に移転しているので、廊下橋のように復元計画もあるようななので、金沢城のような在りし日の雄姿を背景できる日が楽しみな城です。

 

大垣城 天守(明治24年9月12日水害時)

大垣城 天守(明治24年9月12日水害時)

今でも、大垣城の石垣に当時の水害時の水位を刻まれており、当時の大垣市街地の80%が水没した爪痕が残っていますが、7月と9月に台風により本丸までほぼ水没した事がわかります。

大垣城 天守 明治24年9月12日水害時

大垣城 天守 明治24年9月12日水害時

関ヶ原の戦いの直前まで石田三成の本陣としていましたが、一説には備中高松城のように水攻めに弱い事と岐阜城が東軍により落城していた事もあり、城を出て野戦に打って出たともいわれています。

大坂城 本丸御殿 大広間と白書院(慶応3年)

大坂城 本丸御殿  (慶応3年)

 紀州御殿の影に隠れて、存在が少し薄いですが、本来大坂城にあった、本丸御殿で

徳川家茂慶喜の本拠地として機能しており、長州征伐の基地の役割と当時友好関係

にあったフランスと外交の場になっています。

大坂城 大広間と白書院が写る本丸御殿

大坂城 大広間と白書院が写る本丸御殿(慶応3年)

御殿の周りを陣幕で覆われ、警備している侍など、生きた城の貴重な写真ですね。