在りしの日の名城の勇姿

古写真を着色する事で、在りしの日の名城の勇姿を再び

佐倉城 大手門(明治5年)

佐倉城 大手門(明治5年)

老中の城と別名がつく、江戸城を守る役目も持った徳川幕府にとって重要な城です

それだけに、最近復元された水戸城と同様に、写っている人物と比較しても

大手門の巨大さがよくわかります。

佐倉城 大手門

佐倉城 大手門(明治5年)

写っているのは、堀田家の人々でしょうか、取り壊しが決まって、各自が名前を刻んで

撮っているのが、伝えたいものの歴史を感じます。

 

佐倉藩 江戸藩邸 向島屋敷(明治5年)

佐倉藩 江戸藩邸 向島屋敷(明治5年)

墨田区にあった、佐倉藩江戸藩邸ですが、今は残念ながら残っていません。

ただ藩邸の庭園では、比較的早く一般開放していたため、複数の写真が残っています。

佐倉藩 向島屋敷

佐倉藩 向島屋敷

写真に写っている人々は、堀田家の人達かと思いますが、釣りをしてたり結構自由な感じがいいですね

 

福山城 御湯殿 天守と葦陽館(明治35年頃)

福山城  御湯殿 天守と葦陽館(明治35年頃)

福山城も築城400年で、天守北面に鉄板を張るなど、在りし日の姿に近づいてきましたね。

 

明治25年山陽鉄道の福山停留所開通により、三の丸が分断された後、堀など埋め立てや開発により、本丸と二の丸の一部を除きかなり、破壊されていますが、写真では少しまだ残ってますね

福山城 御湯殿と葦陽館

福山城 御湯殿と葦陽館

福山城維持のため、月見櫓の後に作られた葦陽館も、御殿のようないい味を出してますね

小田原城 二の丸 銅門(明治4年)

小田原城 二の丸 銅門(明治4年)

箱根を抑える要所であり、神奈川(横浜)港から、外国人も箱根とセットで訪れることが多く、古写真が結構残っている城でもあります。

 

地震による影響で、維持が厳しく廃城令が出る前にかなり放置されている事が伺います

小田原城 二の丸銅門

小田原城 二の丸銅門

個人的には、銅門の裏にある多門櫓がちょっと気になります。

後は、写真では土橋ですね。

小田原城 復興天守と新幹線0系(昭和39年10月1日)

小田原城 復興天守東海道新幹線0系(昭和39年10月1日)

東海道新幹線の車窓から見える城として、江戸城小田原城掛川城、清州城、彦根城などがあり、掛川城と清州城を除いては、一瞬しか見えませんが、それだけに見えるとちょっとうれしかったりします。

 

また0系も今や完全引退で、博物館行きなので、この2ショットは今は昔ですね。

f:id:k6k6mk2:20220221032206j:plain

今回は50年前に遡ってみました。

弁天岬台場 函館山より遠景(明治20年)

弁天岬台場 函館山より遠景(明治20年)

新選組終焉の地で、五稜郭を守る最後の砦でしたが、新政府軍に函館山から襲撃され陥落しましたが、土方歳三が救援に向かう最中に戦死するなど、激戦地でした。

弁天岬台場

弁天岬台場

今は、一部に石垣が残るのみですが、戦艦 開陽が健在であれば函館湾を網羅でき本来の能力を発揮したのでしょうが、明治2年に弁天岬台場の前に、戦艦ではなく、砲台の役目として幡竜の残骸写真は残っており、旧幕府軍の最後まで意地を見せた事が忍ばれます。

 

府内城 到着櫓と大手門 明治40年頃

府内城 到着櫓と大手門 明治40年

 大分県庁として使用されていただけでなく、東の丸 到着櫓は、大分測候所と

して使用されており、1層目は採光のため窓が4つに増設され、大手門は鐘楼が

ありは2階に半鐘で時を知らせ、堀はレンコン栽培を行っていたマルチな活躍を

していました。

f:id:k6k6mk2:20211218020443j:plain

到着櫓、大手門、西の丸西南隅櫓は、空襲で焼失しましたが、昭和40年に復元されていますが、大手門の鐘楼が再現されなかったのがちょっと残念です