在りしの日の名城の勇姿

古写真を着色する事で、在りしの日の名城の勇姿を再び

府内城 西の丸 角櫓(昭和16年)

府内城 西の丸 角櫓(昭和16年)

秀吉の軍師であった竹中半兵衛の甥にあたる竹中重利より、近世城郭に整備された府内城で、廃城令後も残っていたのですが空襲により焼失した櫓の一つです。

府内城 西の丸 角櫓(昭和16年)

府内城 西の丸 角櫓(昭和16年)

かつて城内にあった大分県庁も場外に移転しているので、廊下橋のように復元計画もあるようななので、金沢城のような在りし日の雄姿を背景できる日が楽しみな城です。

 

大垣城 天守(明治24年9月12日水害時)

大垣城 天守(明治24年9月12日水害時)

今でも、大垣城の石垣に当時の水害時の水位を刻まれており、当時の大垣市街地の80%が水没した爪痕が残っていますが、7月と9月に台風により本丸までほぼ水没した事がわかります。

大垣城 天守 明治24年9月12日水害時

大垣城 天守 明治24年9月12日水害時

関ヶ原の戦いの直前まで石田三成の本陣としていましたが、一説には備中高松城のように水攻めに弱い事と岐阜城が東軍により落城していた事もあり、城を出て野戦に打って出たともいわれています。

大坂城 本丸御殿 大広間と白書院(慶応3年)

大坂城 本丸御殿  (慶応3年)

 紀州御殿の影に隠れて、存在が少し薄いですが、本来大坂城にあった、本丸御殿で

徳川家茂慶喜の本拠地として機能しており、長州征伐の基地の役割と当時友好関係

にあったフランスと外交の場になっています。

大坂城 大広間と白書院が写る本丸御殿

大坂城 大広間と白書院が写る本丸御殿(慶応3年)

御殿の周りを陣幕で覆われ、警備している侍など、生きた城の貴重な写真ですね。

 

大坂城 二の丸 京橋口御三階櫓「伏見櫓」(大正11年)

大坂城 二の丸 京橋口御三階櫓「伏見櫓」(大正11年

元は絵葉書ですが、久しぶりにいい感じで着色できました。

普通の城なら、天守と言っても差し支えないぐらい立派です。

大坂城 伏見櫓

大坂城 二の丸伏見櫓 昭和20年空襲で焼失

三階櫓は12ありましたが、唯一二の丸に存在した三階櫓です。

伏見城から移築された櫓だけに、空襲で焼失していまったのが悔やまれます。

今は、櫓台だけが静かに取り残されています。

 

大洲城 二の丸 苧綿櫓(昭和30年)

大洲城 二の丸 苧綿櫓(昭和30年頃)

 

夏で熱くなってきたので、ちょっと涼し気な感じで

 

大洲城宇和島城と同様、藤堂高虎により城の基礎が作られた城で、脇坂安治により今日の姿になっていますが肱川をうまく活用した川城ですね。

 

現在は、肱川による水害対策として、昭和34年に土台の石積みを2.6メートルかさ上げされているので、堤防と同じ高さになっていますが、写真はかさ上げ前です。

大洲城 二の丸苧綿櫓 昭和30年

大洲城 二の丸苧綿櫓 昭和30年

天守脇坂安治により、淡路洲本城より移築された可能性があるとの事ですが、肱川に映る姿は、何回みてもあきません。

 

 

大坂城 二の丸 六番櫓、三番櫓、二番櫓(明治初期)

大坂城 二の丸 大手門、六番櫓、三番櫓、二番櫓(明治初期)

 二番櫓と三番櫓の間が土塀になっているので、明治5年頃かと思います。

これだけ大坂城自体が巨大なため遠景から撮影した写真がめずらしいので、

当時の時代背景がなんとなくわかる気がします、

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今では想像もできないですが、ものすごい空き地ですね。

大坂城 西の丸 八角薪蔵(昭和6年)

大坂城 西の丸 八角薪蔵(昭和6年)

大坂城 西の丸には硝煙蔵が残っていますが、その横にあった薪蔵です。

背後に建築中の天守が見えるので、時期は昭和6年と特定できるのですが、空襲で焼失したのか、ジェーン台風で崩壊したのか、よくわかりませんが、今は昔で存在自体あったことの、遺構も見当たりません。

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硝煙蔵の横にあった事もあり、消化用の用水がちょっと気になります。